ある日、寝違えたのか、背中の筋肉(筋)を痛めてしまい、
寝返りがうてなくなりました。
起きているときはそれほど痛まないのですが、
横になって、頭を支えて持ち上げようとすると、背中に激痛が走るのです。
最初は、
「なんでこんなに痛いの」 「なんで寝返りくらいができないんだ」 と、
そんなことすらできない自分に腹が立っていました。
でも、いくらそう思って腹を立てていようとも、
ちょっとでも体を動かそうとすれば、痛くて痛くて・・
結局、仰向けの状態で動けないまま、寝付くこともできず、
悶々としていました。
しかし、腹立たしく悶々とした気持ちでいることに疲れたのか、
だんだん、それを考えなくなりました。
やがて、「いくら不平を言っても仕方ないなー」
「まあ、痛くてもいいや、寝返りをうたなくてもいいや」
という、半ば諦めた、こだわりが消えたような感じになりました。
それと同時に、ふと、
「寝返りがうてるのって、ありがたいな」 という感情がこみ上げてきました。
これまで、寝返りについて考えたことは一度もありませんでした。
正直、寝返りがうてることなんて当然のことだと思っていました。
でも、それができなくなって、
その有り難さに気づきました。
さらに、このようにも思いました。
「確かに、寝返りをうとうとすれば激痛が走るけれど、
体を動かすこと自体は可能だし、起き上がることだってできる。 ありがたいな」 と。
(寝たきりになるのって、本当につらいことなんだろうなぁ と、
その方の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がしました)
「そういえば、寝る前に、背中痛いの大丈夫?って、言ってもらえたな。
そんな風に自分のことを気遣ってくれる人がいることだって、ありがたいことだなー」 と。
「そもそも、痛みを感じなくなってしまったら、どうなるんだろう?
痛みを感じないまま体を酷使してしまい、更にひどくなるかも・・
あっ、“痛み”でさえも、存在してくれてありがとうなんだ!
それに自分には、痛みを感じることのできる体がちゃんとあるじゃないか・・・
ありがたい」 と。
感謝はいたるところにあります。 世界中にあふれています。
単に見えていないだけで。
私達はともすれば、見えるもの、聞こえるもの、触れるものだけを信じて価値を感じます。
でも、見えないもの、聞こえないもの、触れないものにこそ、大切なものがあるのです。
そこには、この世界を創っている重要な真理が潜んでいるのです。
見えるものは、見えないものによって支えられています。
それは、わたしたちを、陰となり支えてくれています。 (これが本当の“お陰様”なんです)
そのことに気づくことが、感謝を知ることであり、
感謝を知るその心が、魔を祓うのだと思います。
→このことについての更なる思索
気づき-心の魔を祓うために