どうでしたか?
どんな風に聞こえました? どんな風に感じました?
突然ですが、
あなたは、普段の生活の中で、
怒ってイライラしたり、悲しくなったり、不安や何かに怖れたりする感情(気持ち)になることが
ありますよね。
そのとき、
その感情をもった自分を、自分自身だと思っていませんか?
その感情=私 だと思っていませんか?
普通は、常識的に言って、
「感情や気持ち・思考は、自分の“心”で感じているのだから、
当然、自分自身のことに決まってるよ。」って思いますよね。
でもね、信じられないかもしれないけれど、・・・ 違ってたんです。
私もそうなのですが、例えば怒っているとき、意識的・無意識的にかかわらず、
その怒っている状態=自分、だと思い込んでいます。
これは、自分と怒りを“同一化”あるいは“一体化”してしまっている状態。
このとき、心は怒りの感情に支配され、怒りに囚われてしまっているんです。
自分と怒りを同一化し、怒っている自分は自分以外の何者でもないと思っている状態では、
もう周りは何も見えません。
自己を正当化し、怒りの原因を周囲に責任転嫁!
人の意見や親切なアドバイスだってうわの空、ましてや雨降りの蛙の声なんて、ただの音、
いや、耳にさえも入ってきません。
これは、心に魔のある状態。(穢れの状態)
人間の心って、放っておいたら、どうしてこうなっちゃうんでしょうねぇ。。
「 心の魔を、祓いたい・・ 」
そんな、心の魔を祓うには、どうしたらよいのでしょう。
《 多くの先人達が、長い長い時間と労力をかけて、その答えを見つけてくれました 》
あなたに、腹の立つこと、嫌なこと、辛い悲しいこと、が起こり、
怒り、悲しみ、不安、怖れの気持ち(感情)になっているとします。
そんなときには、こうします。
ふっと肩の力を抜いて、
「あっ 自分は今、怒ってイライラしているな?」
「あっ 自分は今、悲しい気持ちになっているな?」
「あっ 自分は今、何かに怖れているのかな?」
と、
自分の感情・気持ちから一歩離れて、客観的に自分を見つめるようにする。
それと同時に、この怒り、悲しみ、怖れの感情は、本当に自分なんだろうか?、と問いかけてみる。
まずは一瞬でもいいんです。
自分の感情から離れることが大事。
感情=自分ではない、と気づくことが大事です。
もちろん、“感情”だけでなく、“思考”も同じこと。
思考=自分ではない。
突然、思考の話が出てきたけれど、“思考”ってどういうこと? と思いました?
人が頭の中で思考するときって、“言葉(言語)”を用いますよね。
これは当然ですよね。言葉を用いなければ何も考えられないですから。
“この花はきれいだな”と考えるときには、『この花はきれいだな』という言葉を使って考えています。
これと同じように、“自分”というものを考えるときには、『自分』という言葉を使って考えますが、
そのとき、どんな感じがしますか?
そのときは、『自分』という言葉は、自分自身を指し示すものだと当然考えていると思います。
はい、でもそれも、違うんです。
例えば、あなたが『赤いリンゴ』という言葉を使ったとします。
確かに『赤いリンゴ』は『赤いリンゴ』なのですが、
あなたの思うリンゴの赤色と、私の思うリンゴの赤色とは違うかもしれません。
もちろん、形や大きさや匂い、種類も違うかもしれません。
つまり、実際には違うものであっても、同じものとして概念が固定されてしまうのです。
要するに、その言葉によって、そのものが全て言い表されて分かっているつもりになってしまう。
確かに、言葉がなければ思考することもできないし、意思疎通・会話もできません。
私達に言葉は必要です。
でも逆に、言葉によって真実が歪曲され、ごまかされて(誤魔化されて)しまう、
固定観念が生まれてしまうことも、知っておかなければいけません。
そのことから考えると、
『自分』という言葉を使って思考している自分は、本当の自分を表すものじゃない・・・
『自分』という言葉を使って、自分を自分だと思っている(思考している)こと自体が、まやかしかもしれない・・・
本当は、自分でさえも自分ではない。
『自分(私)』という言葉の概念を用いて自分(私)というものを定義し、
『自分(私)』という言葉が自分自身そのものを指すものだと思い込んでいるだけ。
人は、巧妙に仕組まれたそのトリックに、なかなか気づくことができない。
なぜなら、そのことを考えているのもまた、自分の思考だから。
《 このことに気づくことが、心の魔を祓うための重要な鍵 》
自分の感情から離れるための、いい方法があります。
(離れるための“きっかけ”として使える方法とでもいうのでしょうか)
それは、
怒っているときであっても、悲しいときであっても、
どんな感情のさなかにいるときであっても、
一瞬でもいいから、周囲にある“自然”に意識を向けるようにするのです。
風の音、雨の音、虫の声、鳥の声…それら自然の音に、しばし耳を傾けてみてください。
「ああ、蛙たちがいい声で鳴いてるなっ・・・」
「木々の葉が、吹き抜ける風に心地よさそうにサワサワゆれているなっ・・・」
「雨の雫が、あじさいの葉にポツポツと当たる音がしているなっ・・・」
もちろん音だけでなく、自然の景色(光・陰)や匂いに対してもそうです。
それらに対して、あなたの五感を研ぎ澄まして感じてみてください。
「自分と同じように、全ての自然が、今この瞬間、一所懸命、そこに息づいて存在しているんだなぁ」と。
それによって、ふと、我に返ることができます。
すると、それをきっかけにして、
「あっ、自分は今、〜の感情でいるなっ(イライラしているなっ、悲しんでいるなっ、怖れているなっ)」
って気づくことができるようになります。
そして、気づけるようになるまで心の準備が整ったならば、
あとはそのまま、自分の感情から離れることができるようになります。
感情から離れる(自分の感情を客観的に観察する)ことについていいましたが、
思考から離れる(自分の思考を客観的に観察する)ことについても同じです。
例えば、何かの心配事についていろんなことを考えてしまい、それが頭の中を堂々巡りして、
その心配な考えに囚われてしまっているような状態であるとします。
そんなときには、ふっと、周囲の自然に心を傾けてみてください。 五感を研ぎ澄まして感じてみてください。
すると、それをきっかけとして、
「あっ 自分は今、こんな心配事を考えているんだなっ」って、客観的に観察できるようになります。
そして、自分の思考(=思考に使う言葉)から離れることができるようになります。
ここまでで、あれっ? と思いませんでした?
思考から離れるといいながら、
「あっ 自分は今、こんな心配事を考えているんだなっ」と客観的に観察している状態は、
その時点で、“客観的に観察する”という思考をしてしまっているんじゃないかって。
矛盾していると。
あなたはするどいですね。
《 先人は、さらに先の境地にたどり着いてます 》
《 ・・いや、全ては、そこに行き着くのです 》
そうなんです。
〜から分離しようとすること自体が、実は、分離することを阻んでしまう。
分離しよう、分離しようとすればするほど、ますますそれと一体化してしまう。
この矛盾を解決するにはどうすれば・・・
それは・・・
【思考を停止】すること。
つまりは、【何も考えない】 ということです。
感情や思考に囚われている人は、
何も考えるな、と言われても、なかなかそれができません。
何も考えないようにするんだ!、何も考えないようにするんだ!、と思えば思うほど、
「何も考えないようにするんだ!」ということを考えてしまいます。
ですので、まずは、
自然の声に心を傾けてふと我に返り、
「自分は今、〜の気持ちでいるなっ」
「自分は今、〜のことについて考えているなっ」
と、自分の感情や思考を客観視できるようになりましょう。
感情や思考を客観視することができ、
感情や思考に囚われないようにすることができるようになった人は、
本当の意味での“思考を停止する”ことができるようになります。
何も考えないとき、その瞬間、あなたは、ただそこに“在る”ものとなる。
ただそこに“在る”とき、そのときあなたは、“静寂”につつまれる。
(本当の瞑想とは、何も考えず、“静寂”の境地にあること)
《 1分でも10分でもいい、ほんの少しの時間でいいので、
思考そのものを停止し、何も考えない時間をもとう! 》
えっ 今、あなたは、
「思考の停止」、「静寂」こそが、行き着く先の境地っていう話、
なんか物足りない気がするなぁ、あまりにもシンプルな答えだなぁ、と思いました?
どうしてそれが、幸せへの鍵なんだと。
・・・・・・残念ながら、それは説明不可能です。
人間が頭を使って思考している以上、つまり人間が人間であるかぎり、説明は無理です。
なぜなら、これは、思考しない状態のときの話だからです。
思考しないのだから、説明するための思考もできません。よって、説明もできません。
あなたは、
魔を祓うには、 問題・悩みを解決するには、 成功して幸せになるには、これをこうしてああして・・・・・・
って、常に考えていなければ不安ですか? 思考していなければ不安ですか?
一度でいい、一度でいいので、勇気を出して、おまかせしてみませんか?
自分(思考)こそがそれを解決できる唯一のものだという、固定観念を手放してみませんか?
我こそが〜、我こそが、〜というその思いを(エゴという)、ポンっと手放してみましょうよ。
“我思う、ゆえに我あり”、ではないですが、
私たちの頭は、思う(思考する)ことで、我が存在する、自分は自分という人であるんだと思わせる(錯覚させる)
ように仕組まれています。(もちろん、その仕組みは、自分を大切に守ってくれている、ありがたいものなのですが)
私たちは、そこから目覚めなくちゃだめだと思うんです。
思考=自分という呪縛から解き放たれなくてはいけないと。
本当の自分は、別にある。
思考を停止しているとき、確かに何かとつながっているのを感じます。
人が、人でありたいという思いをストップするとき、
我よ我よという思いをストップするとき、
頭の中で絶え間なく続いている思考を停止するとき、
その思考と思考との隙間から、何かがあふれ出てくるのを感じます。何かが差し込んでくるのを感じます。
それは、感謝。
それは、愛。 (Loveというよりも、慈愛という意味での愛)
それは、光。
それは、陰と陽を統合する力。
それは、全てが満たされている本当の自分。
〜この世界に生まれてくる前の、みんなと(世界と)つながっていたころの、1つなる本来の自分。
そしてそれは、在りて在るもの。
魔を祓うには、魔を祓おうとするのをやめること、
何かを得ようとするなら、得ようとするのをやめること、
一見、矛盾(相反する)ことの中にこそ、気づきにくい、真理が隠されている。
人として考えるのをやめるとき、
思考を停止して、静寂につつまれるとき、
あなたは、あなたではなく、
感謝、愛、光とともに陰と陽が統合された本来の自分に戻る。
そして、ただ“在る”という自然そのもの(神)と同じとなる。
はいっ お疲れ様です。
《 自分の感情や思考が自分自身ではないことに気づいて、自分の感情や思考から離れ、
そして、何も考えず思考を停止し、ただその瞬間に在るという時間をもつこと ≫
日々の生活において、感情や思考に囚われてしまったと感じたときには、
気晴らしに、あじさい神社へ魔除け参りにいらしてください。
神社に住む生き物たち、足元の小さな植物、森の木々、林を吹き抜ける風、
自然の声に耳を傾け、自然の息吹に心を傾けてみてください。
ふと、我に返り、自分の感情・思考から離れて、客観的に自分を見つめてみてください。
さらには、考えること(思考)自体を停止し、“静寂”のひとときを過ごしてみてください。
そのときこそ、あなたは、在るものとつながり、心の魔が祓われます。
そして、奇跡が起こります。
・・・・どんな奇跡が起こるのかって?
分かりません。
・・・・なぜ奇跡が起こるのかって?
それも説明不可能です。(笑)
もう一度、蛙の声を聴きながら、そのことについて、考えずに、考えてみてください。
答えが出たら、逆に、私に教えてくださいね。
それではまた。
雨が降ると蛙が鳴く〜心の魔を祓う方法
音声ファイル(約2分)