まず、以前の「神道について」と現在の「神道について」の内容の違いについてお話したいと思います。


結果から言いますと、2つの内容に違いはありませんし、優劣があるわけでもありません。

どちらも本質的には同じことを言っています。
ただ、強調している点が違うだけです。



以前の「神道について」は、心の法則について説明した後、より実践的・具体的な方法について述べました。


現在の「神道について」は、心の法則を生かすための、より根本的な考え方・重要な点を強調しました。




いずれも、最後には「感謝・愛」に行き着きますし、その感謝・愛の気持ちこそが、願いを叶えて真の幸せ
を手に入れるための唯一の鍵(キー)なのですが、感謝・愛の気持ちは、その場しのぎの上辺だけのもの
ではダメなのです。心の底からのものでなくてはいけないのです。
心の中から自然と滲み出てくるようなものでなくてはいけないのです。


その心の底からの感謝・愛の気持ちが持てるようになるためには、避けて通れない重要なことがあります。


それが、人としての傲慢さを無くすということです。


詳細に言いますと、我こそは我こそはと、自分が自分であろうとするエゴ(我・執着・自己中心的)、つまり、
自・他を分け隔て、世界(自然)と自分を分離し、人間こそが偉大だ、私こそが尊敬されるべきだ、
私はあの人よりも優れている、成功したのは私自身の実力だ、私がこれだけやってあげたのだから、
その分に見合った見返りがあるべきだ・・・という、人としての傲慢さを捨てなければならないということです。

そのエゴ・傲慢さが、心の底から感謝・愛の気持ちを持つことの邪魔をしてしまうのです。




いきなりですが、

「命」という漢字を見てください。

“人”は、“一”回、“叩”かれると書きます。


命をいただいてこの世界で生かされてることへの感謝に気付くためには、

人は一回叩かれて、その傲り高ぶった鼻をへし折られなければならないということです。


一回で気付かなければ、何度でも叩かれます。





どうすれば、その、人としての傲り高ぶりを無くす(減らす)ことができるのか・・

それが、「自分はいつか必ず死を迎えるという事実を目をそらさず覚悟をもって受け入れる」
ということなのです。

いわゆる「死生観」を持って生きるということです。


これは、なんと言いましょうか・・・一種の“諦め(諦観)”といいますか、人として損得的に上手くやろう
とするこだわりを放棄したような、それでもって、死を受け入れたことによる諦めから生じる清々しい
晴れ晴れとした気持ちになる、とでも言いましょうか・・





私も含め、あなたも、みんないずれ死にます。


あなたの集めた物、財産、地位、名誉、名声、全て最後には無くなります。


自分が所有していると思っていても、実は何も所有していません。


いわば、この世界は全て幻です。



あの人は立派で、自分は立派でない? 関係ありません。


みんな一時的にこの世界に生かされて、そして、遅かれ早かれ死んで消えて無くなるのです。

大きな無(空)から生まれ、最後は大きな無(空)へ帰っていきます。


そう、みんな、同じ仲間です。 同じ儚い仲間です。


この世界で共に生かされている、いわば現世での「同期の桜」ということです。



自分もあの人も本質的には全く同じ、
だからこそ、お互いの違いを受け入れ、互いに優しくなれるのです。
思いやり、助け合いの心が生まれるのです。 (これを“和”という)






ところで、誤解しないでほしいのですが、

我を捨てろ、エゴを無くせ、執着するな、諦めろ、と言いましたが、

これは、上達しようと努力するな、稼いで儲けようとするな、物質的に豊かになろうとするな、
欲を持つな、こだわりを持つな、などと言っているのではありません。

人間である以上、それらは必要ですし、これがあるからこそ、私たち人間が人間である意味がある
のだと思います。大いに追求すればよいと思います。


だけど、大事なことは、それだけに執着して心が我(エゴ)に支配されてしまうと、
叶う願いも叶わないよ、ということなのです。





別の見方から言いますと、我(エゴ)の無い状態で生きていると、人は“自然”と同じになります。

だって、我が無いということは、我と自然とが、分け隔てのない分離されていない状態なのですから。



私たちは、古来より自然を“神”として畏れ敬ってきました。

(自然というのはなにも植物のことだけを言うのではありません。草、木、石、動物、もちろん人も、
この世界で起こる出来事を含めた全てのものを自然といいます)

自然こそが神であるというのは、全てのものに神が宿るという、
日本が太古から大事にしてきた「八百万(やおよろず)の神」の概念からも理解できます。



“我(エゴ)の無い状態で生きていると、人は、自然と同じになる”ということは、

人=自然=神

つまりは、人は神そのものになるということです。(神人合一)




自分自身が神となれば、

自分の考えたこと・願いは、そのまま現実のもとのなるのです。

自分の考え・願いは、そのままそれが、神の考え・願いと同じなのですから。




一方、この考えに対して、

自分が神と同じ、自分が神になる、なんていう話は、神様に対して失礼だ!神様に対する冒涜だ!
という人もいると思います。


でも、私は思います。

本当に“神”であるのならば、私たち人間ごときの小さな論理にいちいち怒って腹を立てるような
そんな懐の小さい神ではないと。


さらに言いますと、
神とは、わたしたち人間の人知を越えて存在する、もっともっと大きな神性さ・寛容さと言い
ましょうか、宇宙の成り立ち・法則、自然の摂理そのものといいましょうか・・上手く表現でき
ませんが、そういうものだと思います。 (時に、神:自然は人に対して容赦ないくらい怖いですが)



自分が神と同じになるというのは、自分の中には、神様と同じ神性が宿っているということです。

元来自分が持っている神性の発現を阻害しているのが、自分が自分であろうとする我(エゴ)、
傲慢さである、ということを言っています。


神道だけでなく、例えば「道」の字がついている習い事が、いずれも無心(無我)の境地に至る
ことを目指すことなども、実は同じことを言っているのかもしれません。

道を極めるためには、我をなくせと。







我よ我よというエゴや傲慢さはまた、真実を覆い隠し、気づきの邪魔をします。


自分に起こった出来事が良い事だとか悪い事だとか勝手に決めつけようとします。


そして、決めつけた悪い事に対して、
怒れ!悲しめ!嫉妬しろ!焦れ!恐れろ!不安がれ!と己の感情を煽ってきます。


でも、どうか、だまされないでください。




起こった出来事自体には、良いも悪いもありません。

ただ出来事が起こった、それだけなのです。 中性中立です。



その出来事に対して、良いか悪いかを決めているのは、あなた自身です。

怒り、悲しみ、嫉妬、焦り、恐れ、不安、それらの感情を選んでいるのはあなた自身です。

これはこうである、という物の見方(物事に対する切り口)を決めているのはあなた自身です。





・・・・こういう風に私が言いますと、


「いや違う、自分で選んでいるわけじゃないよ! 感情は自然とこみ上げてくるんだよ!」

と反論されるかもしれませんが、でも例えば、


人に何かをもらったとき、

「たったこれっぽっちしかくれないのか!」と言って怒る人もいれば、

「本来はもらえなくてもいいのに、こんなにたくさんもらってありがとう!」

と言って喜んで感謝する人もいます。

この違いは何なんでしょう?




それは、あなたが定義している判断ルールが違うからです。


前者の人は、

「何かをもらうときには沢山もらわなければだめだ!少ない量しかくれないのは
自分をバカにしている行為だ!(自分は沢山もらうのにふさわしい人間だ!)」
という判断ルールをもっている。

だから、ちょっとでも少ないと怒りの感情がこみ上げてくる。


後者の人は、

「もらえる量が多い・少ないなんて関係なく、いただけること自体が、あるいは、
差し上げようと思ってくれるその気持ちこそがありがたいことだ」
という判断ルールをもっている。

だから、たとえ少なくても喜びと感謝の感情が湧いてくる。




判断ルールを定義しているのは、あなた自身です。

自分の判断ルールこそが正しいんだ、ということこそが、あなたの我(エゴ)。



どうか、あなたの判断ルールを変えて、「怒り」を「感謝」に変えてください。







たとえどんなに悪いと思える状況であったとしても、

必ずその中から感謝を見つけることができます。

真っ暗な闇の中からでも光を見つけることができます。


「見つけよう」と決めさえすれば。






       「起こった事実は変えることはできないが、

               それに対する感情や物の見方は自分で選ぶことができる」











・・・・いずれにしても、

一度、だまされたと思って、悪いと思われる事の中から感謝を探してみてください。



不思議なことに気付きますから。












補足説明と言いながら、長くなってしまいました。





ここに、もう一度、「神道について」の要点をまとめます。




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願いを叶えたければ、逆に、願いを叶えようと思うな!執着するな!

自分のことばかり言うな!驕るな!我(エゴ)を捨てよ!



心に死生観をもち、生かされていることへの感謝の気づきを通して、

この世界の全てのことに対する「感謝・愛」の気持ちを持ちなさい!



そして、自分に与えられた今できることを精一杯がんばって、

一所懸命に無心でひたすらに実践・行動しなさい!

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おわりに



これまで、私のつたない文章を読んでいただき、本当にありがとうございます。

ホームページ上ではありますが、あなたとの出逢い、そしてあなたと同じひとときを過ごせましたことを、
心から感謝しております。

目には見えませんが、あなたと心で繋がっていると思います。




「神道について」では、偉そうなことを上から目線的にたくさん書きまして、気分を害すことがありましたら
どうかお許しください。



そういう本人はどうなんだ!ちゃんとできているのか!

と言われますと・・・  恥ずかしながら、できていません。


ちゃんと(100%)できるまで書くな、と言われてしまいますと、

おそらく一生できませんので、今、私が確かに生きているうちに書きました。






この「神道について」は、いわば私自身のために書いたものでもあります。
自分に言い聞かせ、自分を戒めるための文章でもあります。


日々の実践においては、思うようにいかないことが多々あります。

自分が自分であろうとする我(エゴ)は、なかなか強力です。
ちょっと気を許すと、激しい怒り・焦り・不安・恐怖の気持ちが暴れ出します。


でもそんな自分も含めて自分です。
自分からは逃れることはできません。


だったら、許して受け入れるしかありません。


受け入れて、そういう悩みを持てることに対してまずは感謝したいと思います。

でも・・見方を変えれば、実は贅沢な悩みかもしれませんね。

なぜなら、悩むことが可能な健康な頭・体・心が与えられているのですから・・ 
そうでなければ、悩むこともできないですから。

(それに、すくなくとも、その悩みのお陰で、この「神道について」の文章を書くことができました)




いずれにしても、「神道について」を心に留めながら、

毎日の生活、いや、たった今この瞬間を大事にして、

「感謝・愛」に少しでも近づけるよう実践を続けていきたいと思っています。








なお、この「神道について」に記載したこと以外にも、

悩みを解決し願いを叶えるための、更に深い話もありますが、

ここでは割愛いたします。




また実際にお逢いする機会がありましたら、

そのときは、一緒に楽しくいろんなお話しができたらと思います。







ありがとうございました。




あじさい神社-神道について-補足説明&おわりに

「神道について」の補足説明